Little TAO のこと その3

ホントにはじめてしまった。Little TAO。
ぜんぜん準備万端じゃない。妄想はたくさんしてきたけれど。流れに乗っているのか、流されているのか……。さて、どちらだろう…。

 

私は表参道にある現代陶芸ギャラリーで働いていた。働いていたと言っても、とてもニッチでマニアックで年に数回展示があるだけの小さな小さなギャラリーだった。世にまだでない人の展示をしていく。というオーナーの心意気でなりたっていた。しかも現代陶芸。
オーナーの玲子さんは60年代後半をニューヨークで過ごし、ハーマンミラー社で働いていたという人物で。私の母親くらいの年齢でありながら、その洗練されたセンスと好奇心と行動力からはたくさん学ぶことがあったし、まだまだ学びたかった。洋服を着ればわたしよりも流行にのり、着物はサラッと素敵に着こなす。玲子さんが料理してくれた栗のたくさん詰まったチキンの丸焼きは美味しかった。人生のお手本のように、母のように勝手に思っていた。

小さなギャラリーではあるけれども予定はいつも1年先まで決まっていて、玲子さんがギャラリーをお終いにすると言うまでお手伝いし続けようと決めていた。だけど悲しい知らせって突然やってくるものなのだ。

2016年4月、玲子さんに付添って瀬戸へ陶芸家の方を訪ねて行った。「では、また来週ね」と、東京駅でお別れしたその三日後に玲子さんは倒れて意識を失い、そのまま目を覚ますことはなく数週間後に帰らぬ人となった。享年78歳。

それからは、決まっていた展示を開催すべく戦いの日々がはじまった(ちょっと大袈裟だけど 笑)。ダレと戦うのかというと、ご主人である。ギャラリーはオーナーの自宅の一角にあるので、家賃はかからないが私の人件費というものがかかる。それにDMの撮影費、印刷代、郵送料などなど。このご主人、悪い人ではないがケチなのだ。自分は一円もお金は払いたくない。と、ご本人が言った。いままでギャラリーで展示する作家に挨拶するくらいで、一切関わってこなかったのだからオレには全く関係ないと。まあ、儲かっていなくて驚いたんだろうけど…。あと数人、玲子さんが決めた作家を快く展示させて終わりにしてほしかった。仮にも芸大を卒業して建築家として生きてきたのだから、モノを作る事や人にもっと寛容かと想像していたが、現実は違った。玲子さんがどんな気持ちでギャラリーをやってきたのか、そんな事はどうでもよいみたいだ。何度も話し合ったが、一向にかみ合わない。不毛という言葉がよぎる。作家に勝手に連絡してお金を払うならやってもいいけど?などど失礼な事をいう。そもそもお願いしているのはコチラなんですけど…。申し訳なくて頭があがらない…。でもココは私の家ではないし、娘でもないし、家賃を払えるほどの稼ぎもない。決定権はなにもなく委ねるしかない。そして展示の回数は減っていき、私の展示を最後にギャラリーは閉廊となった。2016年の年末である。

その後、倉庫にある玲子さんが買いもとめた作家の作品を整理しなくてはならず、コーディネーターや学芸員、カメラマンのかたにお世話になった。遠方の作家の方が東京に来るといえば会いに行ったりもした。作家の作品を然るべき場所へ送りだそうとがんばった。だけど、わたしは主を失った捨て猫な気分だった。道端でかわいがってくれる人はいても、ついていく人はいないのだ。現代陶芸の右も左もわからない私にアドバイスをくれたみなさんには心から感謝している。これでスパッとサヨナラできたらヨカッタ。

なんだかモヤモヤと。当てつけなのかもしれないなぁ。なんて思うこともあるけど。なにかしなくては!と、思ってしまった。お金もコネも知識もないワタシがやらなくてもいいんじゃない?なんて囁きが聞こえてくるし、準備してると胃がイタイ。でも、なんだか知らんけど始めてしまったのでやるしかない。2017年の夏。

同じようにはいかないけれど、少しづつすこしづつ。いつまで続くかわからないけれども。出来るところまで。なまあたたかく見守っていただければ幸いです。

 


Gallery TAO/玲子さんの遺品より

 

 

 

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